野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二章 江戸時代の「気」の医学と野口整体の自然健康保持 ― 不易流行としての養生「整体を保つ」一 3

3 野口整体の源流は日本の身体文化― 東洋宗教文化(感情制御・気・瞑想)と自然健康保持

 江戸時代以来、日本にからだ言葉が豊富に存在したことは、このような感性を通じ、敏感に自身や他者の感情を捉えることで、他者と感情を共有することができていたのです(自分を捉える身体感覚によって他者をも感ずることができた)。

それは、(江戸時代は)こうして相互に養生することができていた(文化があった)、と考えるようになりました。これは、「気のつながり」によって心を落ち着かせる(「感情制御」)というあり方であり、東洋宗教文化(瞑想法)なのです。

「気は心と体をつなぐもの」とは、師野口晴哉の言葉です(自身の一体感のみならず、他者とも一体となるはたらきが気で、気があることが「心身一如・自他一如」の文化)。

 私は上巻(第一部第三章一 1)で、1970年代の、師の次の「五つの言葉」を挙げました。

一、「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」

二、「気のしっかりした人がいなくなった」

三、「たましいという言葉が使われなくなった」

四、「このままいくと頭のおかしい人が増える」

五、「いきなり刺す人が出てくる」

  そして「…これらの言葉の背後には「愉気が行われなくなったのです」という、もう一つの師の言葉がありました。」と述べましたが、これらの師の言葉は、からだ言葉の背景にある「気の文化」が失われたことを意味するものでした。

 1853年黒船来航以来の西洋化・明治以来の近代化は、敗戦後の高度経済成長時代を経て、現代、江戸時代以来の「気の文化」を一般的に喪失させたのです。

  私は師が亡くなる(1976年)まで、野口整体は、当時の潮流であった科学教(科学的世界観が唯一絶対)とは大いに異なる、特殊な世界だと思っていたのですが、整体協会の外に出て(一九七八年頃)後、一人で考えていく中で、こういう(野口整体の)叡智というものの元は日本の伝統文化にあったのだ、と思うようになりました。もちろん、天才野口晴哉という存在があってできた智に違いないのですが、東洋的、日本的な伝統の中に、その源流があると思うようになりました。

野口整体の源流は日本の身体文化」とは、『病むことは力』終章「日本の身体文化を取り戻す」で用いた言葉です。この初出版以来、十三年を経過しましたが、この間を通じて取り組んだ「近代科学と東洋宗教」という主題の始まりとなっていたのが、これらの言葉でした。

 今あらためて、この言葉を見出しに据え、その意味するところを詳述したいと思います(二より)。

 科学技術の発展がもたらした進歩と自然破壊、とりわけ、「人類の心」の破壊が最も深く進行した現代について、湯浅泰雄氏は「現代の世界は、失われた世界の諸民族・諸文化の精神の伝統を改めて発掘し、その意味について考え直すという困難で回りくどい道を通らなくては、未来に向かう道がどこにあるのか見出すことはできないだろう。(『宗教と科学の間』)」と述べています。

 戦後の科学(理性至上主義)教育は、その知識を得ることや技術の習得であって、自分の「心」や「生き方」を考えるというものはないのです(科学知識と生活の智慧という相違)。

 養生や修養という伝統知を現代に甦らせるためには、それがどのようなものであったかを、まず教養として知り、後に体験的に理解を深めることが現代の日本人にとって必要な順序です(東洋宗教文化は体験主義)。