野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二章 江戸時代の「気」の医学と野口整体の自然健康保持 ― 不易流行としての養生「整体を保つ」二2②

気の思想を基にした「気の医学」と野口整体― 日本の伝統的な生命観・身心観

  ここで、古代中国の気の思想に基づく元気について、解説をします。

 生まれた時に両親から受け継いだ気を先天の気、自分で集め、生成していく気を後天の気と言います。

 元気は、先天と後天の気が合わさって臍下丹田に集まり、生命活動の源となる気で、原気とも呼ばれます。下腹部に元気が充ち、張りがあれば恒常性維持機能も活発で、元気が衰えると、下腹部が軟弱となり、体力が低下するのです。こうした気と下腹部の捉え方は野口整体にも受け継がれています。

②「気」の医学と「身」

立川氏は「気」と「身」について次のように述べています(『養生訓に学ぶ』気の思想)。 

「元気は人身の根本なり」

 益軒が「養生の術」の第一箇条に「気をめぐらす」ことをあげたのは、益軒が人間の基本は「気」であるという思想を抱いていたからである。『養生訓』にはその思想が次のようなことばではっきりと述べられている。

 人の元気は、もと是(これ)天地の万物を生ずる気なり。是人身の根本なり。人、此気にあらざれば生ぜず。生じて後は、飲食、衣服、居処(きょしょ)の外物の助によりて、元気養はれて命をたもつ。

 人の元気はもともと天地(宇宙)の万物を生じた気であり、この気が「人身の根本」である。この気によって人は生まれ、生まれたあとは飲食、衣服、住居の助けで元気が養われいのちをたもつことができる。

…気あるいは元気こそ、「人身の根本」「生の源」「命の主」であるから、養生はこの気をたもち、元気をめぐらすことにある、と益軒は言う。

 益軒の気の考えは中国の気の学説に影響を受けているが、『養生訓』にみられる「気」そして「身」の考え方は日本人特有のメンタリティ(心性)にもとづくところがある。

 益軒はよく「身(み)」ということばを使っているが、それはたんなる身体のことではない。日本人独特の「身」という考え方が背後にある。

 日本語の身にはさまざまな意味がある。…「身を入れる」の身は気持ちのこと、「身のため」の身は自分自身のこと、「身をけずる」の身はいのちのこと、「身をこがす」の身は情のこと、そして「身につける」「身のこなし」「身にしみる」「身をまかす」の身は、益軒のいう「身をたもつ」の身とおなじで、おもにからだのことをいう。私たち日本人は「身のまわり」を身のついたことばで囲まれている。

 このように、身というのは、なによりからだと心をわけない日本人の考え方をよく表わしたことばである。ヨーロッパ流のマインド対ボディという二分法的な考え方ではなく、心身相関の考え方である。

  神社のことを「宮」と言い、胎児を育む臓器を「子宮」と言いますが、「体は宮」という言い方があります(子宮とは、児(こ)の宮)。

 体は「生き宮」、つまり神の住むところなのです。

「身」は「宮」に通じ、「身」は、これを大事にせよと教えていると思うのです。 

「元気は人身の根本なり」

…「気」という思想は、この「身」という考え方とむすびついている。…「心気」「血気」ということばにみられるように、心にも血にもおなじ気があり、気がめぐっている。その気によって人のからだは保たれ動いている。

 こうした考えは、私たち現代人に馴染み深い解剖生理学にもとづく近代西洋医学の身体観とは根本的に異なる。近代西洋の身体観は、いわば固体的・空間的(三次元的)・部分的な考え方(客観的身体観・静的生命観)である。それに対し、この『養生訓』にみられる「気」を基本とする身体観は、いわば液体的・時間的・全体的な考え方(動的生命観)であり、心身相関の考え方(主体的身体観)である。

 ( )は金井による。

  立川氏が述べているように、このように目に見えない「気」を中心とした日本文化だったからこそ、かつての「身」があり、そして師野口晴哉が「気は心と体をつなぐもの」と言われた野口整体も生まれてきたのです(気があることで「心身相関」によって、人を捉えることができる)。

 もちろん、師の「天賦の才」を以って大成したものですが、立川氏が説かれているような生命観(気の思想)が伝統的に存在していたのです。