野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

終章 瞑想法(東洋)と心理療法(西洋)―「生命の原理」を理解し、無意識の世界を啓く 二2

指導する者は故障探しではいけない。人間を物体扱いしてはいけない。その裏にある人間を掴まえて、その人間に適う方向に誘導していく(これが教育)ということが大事で、生理的な背きの中には、自由の抑え、性の抑え、成長の抑え、自発性の抑え、要求の抑え、こういったものの反動が多いのです。

病気の中には、それに不平、不足、つまり満足の抑えといったものをひっくるめて、体の病気として返ってきているものが意外に多いのです。それは自分の体の自分への背きなのです。そういう方向を掴まえ出す努力、道筋が判らないだけなのです。

だから操法がヒントになって、心が開けるように、あるいは体の背きがなくなるように誘導すればいいのです。椎骨の何番が毀れていたというより、この人の自由は、この人の自発性は、どういう処で抑えられているのかといった眼で、見つける方向に進んで頂きたいのです。

野口晴哉 

ユングの観た病症の背景― 無意識から離れることは生きる道筋から離れること

 ユングは、近代自我を確立し社会での成功を勝ち得た後、彼の患者となった中年を過ぎた人々の心の中に、若い時のままでその後の精神的な成長がない(理性ではなく情性が劣る)ことの問題点を見い出しました。

 ユングは「心の病」について次のように述べています(『ユング自伝 1 思い出・夢・思想』ヤッフェ編 河合隼雄他訳 みすず書房)。 

Ⅳ 精神医学的活動

 私はこれまで、人生の諸問題について不適切なあるいは悪い回答に安んじるとき、人は神経症的になることをたびたび見てきた。彼らは地位、結婚、名声、外面的な成功、あるいは金をため、それらを手に入れた時でさえ、不幸かつ神経症的な状態のままである。

そういった人々は通常、非常に狭い精神的な範囲のうちに閉じ込められている。彼らの生活は十分な内容と十分な意味を持ち合わせていない。もし彼らがもっと広い高邁な人格へ発達できるのなら、神経症は一般に消失する。そのために、発達的なものの考え方は、私にとってはつねに最も重要であった。

 ここで、ユングが「不適切」「悪い回答」と言っていることは、自分が本質的にどうしたいのか分からない(意識と無意識が切れた状態(註))、あるいは自分の選択に自信が持てないことによって、常識的または理性的判断のみをし、本来の自分(自己)が求めることではない選択をしてしまう、ということです。

それは情緒不安定と「精神的に成長していない(利己心・依存心が強い)こと」によるもので、野口整体的には、自発的に(要求に沿って)生きていない、ことです。

 その結果、自分が選び、築いた生活や地位であっても、自分との真のつながりが見いだせない、ということが出てくるのです。

 そして、若い時には価値があると思っていたもの(宗教・家族・地位・仕事など)に価値を見出せなくなり、「自分の存在(人生)に意味や価値を見いだせない」「成長への道筋が見いだせない」という、「行き詰まり・方向喪失」に落ち込んでいることが「神経症(ノイローゼ)」なのだ、というのです。

 このようにユングは、意識と無意識が離れた生活を送り、情動(コンプレックス)を抑圧していることで、患者が心理(潜在意識)的に孤立した状態(環境と、そして自身の無意識(自己)ともつながりが失われている・閉鎖系)にあることによって、内攻した情動エネルギーが妄想や幻覚を生み出していると考えました。

 そして、これらのことが神経症統合失調症、身体疾患、不慮の事故、自殺、といったものの背景にあることを突き止めたのです。

 これらの事例は、全て、コンプレックスに自我が支配されていることです。

 (補)心的孤立

 (環境と、そして自身の無意識(自己)ともつながりが失われている・閉鎖系)というところがありますが、これは知人友人が大勢いるとか、家族と住んでいるとか、また逆に一人で生活しているなど、外的・社会的条件によるものではなく、自身の心が感じている孤立感のことを心的孤立と言います。

 全く、その人の心身が流れの良い状態にあるか、ないか、またひらかれた心かそうでないか、という問題だと理解してください。