野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三章 自分を知ることから始まるユング心理学と野口整体 三2①

「関係性」を失わせる科学至上主義

① 科学的方法論に頼ることでもたらされた関係性の喪失

 科学というものは、研究対象(物)より自分(の心)を切り離す(切断)という「物心二元論」で成り立っています。これを「客観的」観察と言い、それは、物を対象化して研究するのです。そして、一切の「主観」を排除するのが科学なのです。

 それで、科学的な西洋医学では、対象である人間の主観を排除(=人間の体から心を切り離し、物として観察)し、かつ観察者の主観をも排除(=客観的に観察)し、行なわれるのです。「切断」とは、主観によるつながりがないことです。

 しかし、「自分で自分の研究をする(自分を知る)」ことで成立した深層心理学(による臨床心理)は、研究対象とのつながりが肝要です。また、主観を排除するものではないのです。

河合隼雄氏は、

心理療法は科学であるか」という問いは、筆者にとって常に重くのしかかっていたものである。心理療法を非難する人が、心理療法のような「非科学的」なものは駄目だと言うことは多い。時には「あんな宗教的なものは駄目」と言われたりもする。つまり、宗教的イコール非科学的イコール駄目、ということになるのであろう。

と前置きし、科学的・客観的な「切断」と宗教的・主観的な「関係性(つながり)」について次のように述べています(『心理療法序説』岩波書店)。

 

1 科学の知

…ここでひとつの例をあげる。印象的だったので他にも述べたことがあるが、学校へ行かない子どもを連れて相談にきた親が、「現在は科学が進歩して、ボタンひとつ操作するだけで人間が月まで行けるのです。うちの子どもを学校へ行かせるようなボタンはないのですか」と言われたことがある。これだけ科学が発達しているのに、ひとりの子どもを学校へ行かせるだけの「科学的方法」はないのか、というわけである。

 この言葉は非常に大切なことを示している。つまり、ここで「科学的」方法に頼るとするならば、父親と息子との間に「切断」がなくてはならない。既に述べたように、近代科学の根本には対象に対する「切断」がある。

しかし、この親の場合はあまりにも極端としても、われわれは他人を何らかの方法によって「操作」しようと考えることが多いのではなかろうか。つまり、自然科学による「操作」があまりに強力なので、人間に対してもそれを適用しようとするのである。しかし、もしそのように考えるならば、その人は他からまったく切断され、完全な孤立の状態になる。

  西洋の近代自我がたどりついた論理実証主義(理性的思考の発達)は、人を宇宙に打ち上げて帰ってこられるほどの科学を発展させたもので、人類に大きく寄与してきました。

 しかし、これを「人間」にあてはめることはできないというのは、一切の主観を排除して、人の心にはたらきかけることなど不可能だからです(主観がはたらかないことは切断していること)。

 河合氏は次のように続けています。 

 現代は孤独に悩む人が多いが、そのひとつの原因として、自分の思うままに他人を動かそうという考えに知らぬ間にのめり込んで、結局のところは人と人との「関係」を失ってしまっていることが考えられないだろうか。相談室に訪れる多くの人に対して、「関係性の回復」ということが課題になっている、と感じさせられるのである。

  孤独に悩む人というのは、「実は対話ができない」ことで、その結果、自分の思うままに他人を動かそうとしてしまうのです。対話とは単なる会話と違い、「心が行ったり、来たり」することです。それで人とつながることで、「関係性」ができ、これによって心は安定するのです。

 良い関係性によって、無意識の「連帯感」が形成されますが、この連帯感が得られないことで、人の心は不安定になるのです。

 近藤

 関係性というのは「つながり」という意味で、良い関係性も悪い関係性も両方ありますが、人間同士は社会的な立場や役割などとは別の次元で互いにいろいろな影響を受け合って存在しているものです。それが感じられない、見失っているということが「関係性の喪失」と言えましょう。

 現代の人は、客観的な見方が正しいと思い込むあまりに、客観が「つながり」を切ることで成立するものだということを忘れてしまいました。この「つながり」を生むのは「主観」であり、これは体から発する心(感情・感覚)で、身体性と言うこともできます。