野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第五章 野口整体と心身医学の共通点 二5

 今回は、心身症になりやすい人の傾向とされている「アレキシサイミア」についてです。

 池見氏が失感情症と訳して紹介したアレキシサイミアは、感情がないのではなく、「感情として表現することができない」という意味をはっきりさせるため、現在は「失感情言語症」と呼ばれています。

 近年、子どもたちでも体と自分とのつながりが薄いという傾向が強まり、上がったりして胸がどきどきすると、自分は病気ではないかと思ってしまう子どももいるそうです。

 身体感覚や基礎的な身体能力の低下が指摘されるようになったのは1970年代後半からですが、今は小学校の体育で「体ほぐし」などの、身体感覚や反射運動、平衡感覚などを育てる、より内的な体育が行われるようになってきました。

 では、内容に入ります。

失感情症・アレキシサイミア― 感情を自覚し表現することができない

 近年急増する心身症患者の特徴を説明する概念に「アレキシサイミア」という言葉があります。

 これは、1970年代初め、米の精神科医シフネオス(1920年ハーバード大学医学部教授)らによって提唱されたもので、1977年池見氏によって日本に紹介され、「失感情症」と訳されています。

 失感情症とは、感情の生成変化そのものが失われているのではなく、自分の感情(情動)を認知する能力や、その感情の言語化の障害 ― 自らの内面的な感情を意識し、表現し伝えることができないこと=失・感情言語化・症 ― を意味します。

 心身医学では「心身症の患者は、自分の身体症状にはある程度気付くことができるが、自分の心理的苦悩や精神的ストレスには無頓着であり、殆ど興味を持たないので気付くことができない」ことが指摘されています。

 神経症抑うつ症の患者に比べ、心身症患者はアレキシサイミアの傾向がより強いのです(つまり身体疾患の人は、心身分離の傾向がより強い)。

 失感情症の傾向を持つ人は、自らの率直な感情の「気づき」が上手くできず、感情を言語化することができないことから、想像力に欠け、対話能力(心を通わせるはたらき)が貧困である状態、また内省の乏しさといった特徴があります。

 感情の気付きや表現に乏しいと、抑圧された感情が内攻し易く、身体症状化することになるのです。

 それは、情動は起きているが、感情として=主観的な気持ちは意識されておらず(=感情が未分化なままで)、表現もされず、その結果、鬱積した強い情動が各種の身体症状へと転換しやすくなるというものです。

 この傾向が長期的に持続した結果、特定器官に集中して出現したのが心身症です。

 つまり「病気は心の訴えである(師野口晴哉)」のです。

 心身症患者における、失感情症は「自身の不満やストレスに対して無自覚な(または無自覚に近い)性格傾向」で、自分のこころ・内面(感情)に目を向けること、向き合うことが苦手なことを意味しています。

 それで、感情を伝えることも障害を起こしてしまうのです(一見、人間関係や生活に不都合はなく、適応の良い人生を送っているように見える人が多い)。

この潜在的要因として次の三つが挙げられます。

 その第一は、身体感覚を感じ表現する(=生理・心理的な辛さを表現する)ことは「そのような弱い人間であっては社会から脱落する」などという、「心理的脆弱性の嫌悪」による強迫観念を持っていることです。

 第二は、人に気配りをし過ぎ、外界(家庭や近所、職場などの人間関係)に過剰適応して、自分の気持ちや欲求を無視する生活が習慣化している人です。これは、「このことによってのみ、良好で安定した人間関係が維持される」と思い込んだ過去(幼少期や思春期)が現在に続いている、ことが考えられます。

 第三には、自分の気持ちや感情といった個人的な問題(内向的な目標)よりも、会社での立場や地位といった社会的な問題(外向的な目標)が優先されるという価値観を確固として持っている、つまり過度の「外向性と社会的成功欲求」を持っていることです。

 真に丈夫(敏感で弾力ある身心)で、成功欲求を勝ち取れれば良いのですが、このような傾向と引き換えに、大病や突然死に襲われることがあるのです(この場合、特に体が鈍い)。

 ここで挙げた三つに該当するような患者は、精神分析などの心理療法を行う際に、もとより自身の感情に眼が向いていないことで、治療が深まらない特徴を持つ一群の人々であることを捉えたのが、シフネオス医師によるアレキシサイミア・失感情症という概念です。