第四章までに述べた情動と偏り疲労についての内容を少し復習しておきましょう。
野口整体で説く「要求を中心とした生活」を実現していくためには、体を整え、感覚を正常化する必要がありますが、そこで障害になるのが、意識できない情動の停滞です。
この情動の停滞というのは、自分で「あの時、やっぱり頭に来たな」などと分かっていて、自分の中では終わったことであっても、また原因となった問題が解消した場合であっても、身体的に緊張(硬張りや歪み)があるということは、情動的興奮が続いてしまうということです。
その場や、その直後に自覚した以上の激しい感情が起きていた、ということもあるし、そんな情動が起きたことそのものを自覚していないという場合もあり、そのいずれも身体的に緊張が残っていて、それが「偏り疲労」というものです。
なお、これまで「適応」という言葉を多用してきましたが、「適応」と言うと、自身が不快を感じている環境の中で、あたかも理性的にふるまい行動すること、浮かない程度に周りの人に同調すること…などを思う人が意外と多くいます。
それは頭で考えた「処世術」のようなもので、適応とは言えません。結果的に理性の脳(新皮質)が情動や感情の脳(特に辺縁系)のはたらきを抑圧することになり、抑うつ、ストレス性疾患の機序にまっしぐらです。
整体的な意味での適応とは「より良い生存の条件、より良い情動や感情、寄り寄り環境を創造すること」と定義しておきます。
それでは内容に入ります。
3 滞った「感情エネルギー」に主体性を奪われる
― 身体が弾力を失うと心が刷新しない
Iさんは、「怒り」の感情エネルギーが体に鬱滞すると、気持ちが内向きになり、仕事に向かわなくなるという生活が長きに亘っていました。測量士である彼は、自宅事務所での仕事の割合も多いのですが、このような時、仕事とは無関係な本を読んだり、インターネットにはまったりしていたのです。
そして、こういう状態にある時、趣味のソフトボールで怪我をしたり、「今日は白バイが多く出ているな」と気づいていながら、駐車禁止の場所に車を停めて切符を切られたりと、副次的に「悪いこと」が起きてしまうことをよく経験していました。
こういう時、全く心身不統一な状態(=不整体)にあるのです(不整体の時、悪いことが起きやすいのは「共時性」の顕れと考えられる)。
2で述べた、よく食べるようになるのは、感情をリラックスさせようとしての心理・生理的要求ですが、彼の身体はこういう時、怒りにより腰が狭くなっている(=この場合、怒りという頭の緊張とともに右の骨盤が内側に縮む)ことで、体が弛まず、頭に上がった「気」が下がらなくなっています。
食べることで、このような身体状況が変われば、本当の意味でリラックスできるのですが、そのための身体の「弾力」が、特に骨盤部に欠けているのです。深酒が続いていたのも、彼の身体がこのような状況にあったからです。
それで「気」が動かないことで、感情が流れない状態が続き、気分がなかなか変わりにくいのがこの人の特徴でした。
一般に「食べ過ぎ」てしまう状態は、ストレスによる交感神経緊張状態(イライラ)持続に対し、消化管を動かすことで交感神経優位から副交感神経優位の状態にしようとするのです。
食べたり飲んだりすると、それまでの緊張から解放されるのは副交感神経が働くからなのです。食事量がいつもより増えるという時は、無意識のうちに交感神経の緊張を解消しようとしているのです。
しかし、食べている間だけは副交感神経が働いているにすぎず、本当には体が弛み、脳の働きが緊張から離れるという状態に至らないと、真のストレス解消とはなりません。
このように、カチンときた感情エネルギーに自身が縛られていたことが、1・2の「食べ過ぎ・深酒」が続くのをもたらしていたのです。
これはユング心理学でいう「コンプレックス」で、抑圧された感情エネルギーに自我の主体性が奪われている状態です。
現代のように、いくらMRIが発達しても、このような〔身体〕は画像には現れません。