野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 三6

6 科学の網の目とは― 一切の主観を排除する科学の客観的見方と野口整体での主観

  これまで述べてきたように、心身二元論では、精神とは「理性」であり、「理性」こそ、神が人間のみに与えた精神的はたらきとして重要なもの(=魂)と考えられました。「感覚(視覚以外)」や「感情」という体に即した心のはたらきは精神には含まれていません(感性、徳性も含まれていない)。

 このようなデカルト哲学を基とする「近代科学」とは、研究対象との心情的つながりを切断し(=物心二元論)、実験や観察が出来るもののみに絞った上で、それらを、

①「客観的」に観察(=見られるものを対象化)し、

②「合理的」に解明(=原因 ― 結果の因果関係を論証)する、

③これらを基に「普遍的」な法則(=どこでも通用する真理)を導き出すことでした。

 そこで、「数値化(①に対応)」と「論理性(②に対応)」、「再現性(③に対応)」がキーワードとなりました(客観性・論理性・普遍性を言う場合もある)。

 この①②③の科学的方法は「理性」のはたらきのみで行なうとされています。観察される「他」にも、観察する「自」にも、感性は認めないのです。

 このように、科学は、心(感覚・感情)という「目に見えないもの」を切り離すことで成り立っているところに特徴があります。

 つまり、一切の主観を排除したのです。これが「科学の網」というもので、網の目にかかったものだけが「科学的認識」なのです(この網の目にかからないものは、科学的には分からない)。

 この「心身二元論」を元とする近代科学を基盤として、西洋医学は発達しました。

 こうして成立した西洋医学は、肉体に起こっている症状だけを病理学的に理解し、生活している心とのつながりの上で考えようとしないものです。このような見方による体を「客観的身体」と言います。

 理性という精神が「私」であり、私は「頭」にあって、その持ち物が体で(=心身二元論)、これが時々壊れたり、「私(精神)」の言うことを聞かなくなる(=機械論的生命観)というのが、近代科学の「客観的身体観」なのです。

 こういう体の捉え方(科学的身体観)が、「人間生命を研究する」上においては問題を孕んでいたのです。

 そして教育においても、本来、意識のはたらきである「感覚と感情(主観)」は訓練されず、理性的(客観的)な「思考」のみが発達しているのが現代です。

 このような思考のみが尊ばれ、感覚と感情を発達させないのは、意識の要素の三分の一だけで生きているということになります(本章三 3 参照)。

私が、このように心身二元論について述べるのは、整体であるためには、何よりこの「感覚・感情」が大切だからなのです。

 身心が統合される(=整体である)ためには、感覚・感情という「主観の発達」が必須なのです。