野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 第一章 三3 科学(西洋医学)的生命観を相対化し、 野口整体の生命観を知る

 序章三2では、「生きているということの自覚のないまま、みんな他人任せで、自分の健康管理まで人のせいだと思い込むような人がたくさんになったのでは、いくら医者を増やしたって足りるわけがない。」引用されている野口晴哉の言葉が引用されていました。

 私は新型コロナウイルスの問題が起きてから、「医療崩壊」などについての記事を目にするとこの言葉が思い浮かぶようになりました。このコロナ禍で、セルフケアの重要性やストレスと免疫系のことなどが以前より注目されるようになったのは数少ない良いことであったと思います。

 そして、感染症は完全制圧できないこと、感染症に怯えるだけでは人間の生活も社会も行き詰っていくことも認識されるようになってきました。

 これからの世界はどうなっていくのか分かりませんが、パンデミックという集合的な病症経験を通じて自分の健康に対する認識を新たにしていくことが今後を生きる上でも意味のあることだと思います。

 それでは今回の内容に入ります。

3 科学(西洋医学)的生命観を相対化し、 野口整体の生命観を知る

 活元運動は、野口整体の生命観を理解し、「自分の力で生きていく」という気構えを持つ人に有効なものです。

 活元運動を通じて「裡の力を自覚する」という修養を、きちんと行うため必要なのが、その思想を知的理解することで、これが教養です。これは「生きるための教養」であり、その内容は師野口晴哉の思想、及び当会(気・自然健康保持会)独自の科学的生命観と野口整体的生命観(西洋的心身観と東洋的身心観)との相違という思想の理解です(教養なき修養は盲目であり、修養なき教養は無力)。

1、2の引用文内容に先立ち、師は、活元運動の基本理念を次のように説きました(『月刊全生』)。

本来の体育(六頁)

…みんな一人一人自分の健康を自分で保つ力を持っているけれども、自分の持っている力を自覚しないと意識的には発揮できないのです。

 だからそういう力を持っていることを自覚して、そうして自分の力を発揮するように工夫すれば健康になれるけれども、代用薬をたくさん使ったり、人の力や技術をあてにしたりというようなことばかりやっていたならば、病気が治っても薬のせいだと思って自分の体の力だということを忘れてしまう。

 いろいろな機会に人間の生きている力を自覚させ、その力によって潑剌と生きるように指導すべきなのに、それとはあべこべに人間の持っている力を無自覚にして、はやく医者に相談しろという一点張りになってしまう。病気が恐いことを教えたいために人間の体を無能無力のように扱って、出てくる熱まで下げようとして、出てくる汗まで引っ込めようとするなどというのはおかしいのです。

 だから今の衛生の考え方のパターン(様式)はみんな違っているのです。それを変えないうちは人間は丈夫にならない。…そういうことをまずはっきりさせてこういう活元運動を普及しようというように考えたのであります。

 この文章は「自分の持っている力の自覚」を教える禅的な(自然治癒力への悟りを促す)教育と、治す人と治される人に分かれている西洋医療のあり方(科学力による自然支配)という相違を表現しています。また「人間の体を無能無力のように扱」うようになるのが、機械論である科学なのです。そして「今の衛生」とは、科学的に発達した医学思想に基づくものです(西洋近代医学には自然治癒力は前提されていない)。

 師野口晴哉の思想は、日本の伝統的な(江戸時代以来の)養生論(身体の状態を整える教え)の流れを汲むもので、明治になっての近代医学の衛生論がこれに代わったことで生じた負の部分(人間に具わる力の「無自覚」)に対し行なわれるのが「野口整体」という教育です。

 この生命観理解のため、これまで身に付いた科学(西洋医学)的生命観を相対化(註)し、野口整体の生命観を知る、それが「禅文化としての野口整体」の目的です(科学的生命観の相対的理解を深めるには、上巻『野口整体と科学 活元運動』Ⅰ・Ⅱ必読)。

(註)相対化 一つのものの見方が、唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること。