野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

『野口整体と科学』序章 身体性の衰退を観通していた師野口晴哉

 今回から序章に入ります。初回は「正座再考」の原文と現代語訳を紹介します。この文章が書かれた昭和六年という時代は、日本が軍国主義化を強めていく時代でした。

 一見、国粋主義的にも受け取れる表現がありますが、掛け声だけ勇ましくて、日本人の長所や美点が失われつつある現状に対する警告が本来の意です。

 

序章 本書へのアプローチ― どのようにしてこのような思想に至ったか

身体性の衰退を観通していた師野口晴哉 

正座再考

1931年(昭和6年)(『野口晴哉著作全集第一巻』養生篇)

 正座は日本固有の美風なり。

世間、腰抜け多きが為か、その後、脚が痺れるの、痛いのと、苦情頻りに至る。されど、正座は足を重ね、脚を折り、その上に腰を落着けることなり。腰より上を楽に、下を抑圧することがその精神なり。

脚が痛むも痺れるも、命に別条なきなり。潔く我慢すべし。我慢のできざるは、これ弱虫なり、腰抜けなり。力、腰の下に集まりて、丹田自づから充実し、頭脳静穏となりて、又五臓六腑が活動するなり。

偶々、人来りて胡座す。何故かと問へば、彼答へて「洋服なればなり、即ちズボンに皺の寄るを恐るゝなり」と。善い哉。されど、斯くては洋服の持主に非ずして、洋服の奴隷に他ならざるなり。何ぞその憐れなる。予輩江戸ッ子には如何にも真似もできぬ芸当なり。

 世相日毎に浮調子になり行くさまは、これにても明らかなり。

人曰く「正座せば脚短くなりて醜きなり」と。

 予応へて曰く「脚の短き何ぞ醜くからむ、脚短くも腰強ければ宜しきなり。角力を見よ」

 日本人の脚短きに非ず、外人の脚長きなり。されど人の中心は丹田なり。故に茲に力集りて健康となるなり。

 脚の長きは中心、丹田に存せずして股に下がるなり、されば空間なるが故に力の入れようなし、故に丹田充実の真効は、正座せざるものには味はひ得ざるなり。

人体の中心は丹田に在るが正しく、空間にその中心在るが如きは、正しからざること何人も首肯し得べし。力、中心に在らざれば独楽も回転せざるなり。

 徒歩して疲れたる時、脚を伸ばして寝れば、翌朝なほ疲労去らず、脚を折りて寝る時はよくその疲労を癒すなり、正座は脚を疲れしむるものに非ざるを知るべし。

正座して臍の下を向くは正しからざるなり、病弱なり、不調心なり、フラフラなり。臍が上に向かざれば、正座の効を味得するを得ず、臍の上向くまで正座すべし。二時間でも十時間でも可なり。

長時間、座したりとて足消えて無くなるものに非ず、大丈夫なり、心配無用なり。

 腰の強きは日本人の特色なり、これ正座によりて養はれたる結果なり。近代の人、腰の弱きは正座を忘れたるが為なり。日本人の国民性は、これらの人より漸次去りつゝあるなり。用心すべし。正座すべし。

但し腹に力を込めて気張る必要なし、正しく座せば自づから気力臍下丹田に充つるなり。気張りて丹田に力を込むるは、誤れり。

 ただ正しく座すべし。正座せば、疾病に冒さるゝも恢復力強し、正座せざれば老衰す、腰弱ければなり。

 腰は即ち生殖能力の中枢なり、老衰とは生殖能力の衰退の現象なり。婦人正座せざれば難産す。分娩の中枢は即ち腰なり。

 腰定まらざれば信念なし、信念なき人は進化せざるべし。正座し得ざる人は頼むに足らざるなり。

 人須らく正座すべし、これ日本人たる所以なり。

 

正坐を見直す(現代語訳)

 正坐は日本固有の美しい習慣である。

 世間では、腰抜けが多いせいか、正坐をすると、脚が痺れるの、痛いのと頻繁に苦情を言う。しかし、正坐は足を重ね、脚を折り、その上に腰を落ち着けるということだ。腰より上を楽に、下を抑圧することがその心(精神)である。脚が痛むのも痺れるのも、命に別条はない。潔く我慢しなさい。

我慢ができないのは、弱虫だ、腰抜けだ。(正坐をすると)力が腰の下に集まって、丹田がおのずと充実し、頭脳は静かに穏やかとなって、内臓が活動するようになる。

 たまたま、来訪者があって胡坐(あぐら)することがあった。なぜかと尋ねると、彼は「洋服だからです。ズボンにしわが寄るのではと心配で」と答えた。いいだろう。しかしそれでは洋服の持ち主ではなく洋服の奴隷に他ならない。なんと哀れなことか。私のような江戸っ子にはどうしてもまねできない芸当だ。

 世相が日ごとに浮ついたものになっていく有様は、これを見ても明らかだ。

ある人は「正坐をすると脚が短くなって醜い」と言った。

 私はそれに応えて言った、「脚の短いのがどうして醜いものか、脚が短くとも腰が強ければいいことではないか。相撲を見なさい」

 日本人の脚が短いのではない、外人の脚が長いのだ。そうではあるが人の中心は丹田にある。したがってここに力が集まることで健康となるのだ。

 脚が長いと、中心が丹田ではなく、股の間に下がってしまう、そうなれば空間であるから力の入れようがなく、それゆえに丹田が充実することの真の効用は、正坐しない者には味わうことができないものなのだ。

人体の中心は丹田にあるのが正しく、空間にその中心があるなどというのは、正しくないことは誰でも納得できるに違いない。力が中心になければ独楽も回転することができない。

 

 歩いて疲れている時、脚を伸ばして寝ると翌朝になっても疲労がなくならず、脚を折って寝る時はよくその疲労を癒すことができると同じく、正坐は脚を疲れさせるものではないことを知るべきだ。

正坐をしてへそが下を向いているのは正しいあり方ではなく、病弱であったり、心に乱れがあったり、フラフラしているのだ。へそが上を向かなければ、正坐の効用を味わい身に付けることができない、へそが上を向くまで正坐しなさい。二時間でも十時間でもよい。長時間正坐していても足が消えてなくなるものではない、大丈夫、心配は無用だ。

 腰の強いことは日本人の特色で、これは正坐によって養われた結果である。近代の人間が腰の弱いのは正坐を忘れたためなのだ。日本人の国民性は、このような人々から次第に失われつつある。用心しなければならない。正坐すべきである。

 ただし、腹に力を込めて気張る必要はない。正しく坐せば自ずと気力が臍下丹田に充ちるものだ。気張って丹田に力を込めるのは、誤っている(註)。

 ただ、正しく坐すことだ。正坐をすれば、病気に冒されても回復力が強い。正坐しないと老衰するのは、腰が弱くなるからなのだ。

 腰は即ち、生殖能力の中枢である。老衰とは生殖能力が衰退するために起こる現象である。女性が正坐しないでいると難産する。分娩の中枢は即ち腰なのだ。

 腰が定まっていなければ信念はない、信念のない人は進化するはずがない。正坐ができないような人は頼みにするには足らない。

 人は皆正坐すべきである、これは日本人であればこそなのだ。 

(註)気張って丹田に力を込めるのは、誤っている

 岡田式静座法などで説かれていた坐法を批判する意。上体の力が抜ければ自ずと下腹に力が入るため、野口整体では、下腹に力を入れるのではなく、上体(頭・頸・肩)の脱力を指導する。