野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第一章 野口整体と西洋医学―身心一如(一元論)と心身分離(二元論)二4

 中世後半の時代に入ると、ペストの大流行、そしてヨーロッパで頻発した戦争がヨーロッパの医療を変えていきます。キリスト教神学を基盤とする正統医療には、実際的な治療効果がなく、医師の指示に従うのみの技術職人だった外科医たちが、自身の観察と経験を基に新しい医療を始めたのです。

 ごく大雑把に言うと、西洋医学の本格的な発達の原動力は、感染症と戦争であり、解剖学がその基盤となったということで、現在でも感染症対策と救急医療は西洋医学の得意分野です。では今回の内容に入ります。

4 中世中期~近世(14世紀~16世紀)の西ヨーロッパの医学

― 西洋医学教育の大変革・ヴェサリウスの解剖学

 西欧中世の大学で教えるガレノスの医学は、患者を治療することよりも文献研究や神学的な理論構築としての側面が強く(理論を先立てるギリシア以来の伝統で、医学は文献学だった)、実際の治療・診断に役立つ技術ではありませんでした。

ギリシア医学によって医療が行われたとしても、中世の教会は依然として病や死は神から与えられると説き、神学者も医師もその教えを信じ、従っていた)

医学の中心は研究室や病院ではなく、図書館にあり、大学の博士(ドクター)たちの主な仕事は古典の解釈であり、体系的な実験・解剖や観察は行わなかったのです。

また、大学を出た医師は文献に基づき処方を出すだけで、臨床を行うのは、医療技術の職人達(外科医・理髪外科医と呼ばれた)でした。

またキリスト教色の濃いパリ大学では十三~十四世紀まで外科学が教えられることはなく、医師→医師の認可した技術学校を出た外科医→理髪外科医→薬種商→その他無資格の医療従事者(ユダヤ人医師や民間伝承医、助産などに従事する女性の医療者など)という身分の階層化が確立しました。

このような社会構造が西欧に一般的なものとなっていたのです(テオーリア・理論(当時はスコラ哲学)はプラクシス・実践に勝る、というギリシア以来の伝統)。

 実際の医療においては、薬剤の処方とともに、職人に伝わったアラビア医学の外科手術の技術(11世紀に導入された瀉血などの技法)が、治療として行われるようになりました。しかし、実際の治療効果は薄く、危険な治療でかえって患者を命の危険にさらすことも多かったのです。

 その後、伝染病のペスト(14世紀、西欧で3千万の死者を出し、ガレノス医学に治療法は無く、死亡率は30%)や大砲・小銃などの火器を用いるようになった戦争での重傷の治療に、優れた外科医の技術が、体力のある患者には一定の功を奏したこともあり、身分の低かった外科医の社会的地位が向上しました。

 彼らは古代の文献や教会の権威に頼らず、自分の目と手を通じて学び、学術用語であるラテン語ローマ帝国時代と現在のヴァチカンの公用語)ではなく、英語、フランス語、ドイツ語などの俗語で医学の実用書を書きました(医学が哲学・論理学・神学から離れた)。

 そして15世紀の印刷技術がそれを普及させ、学者と聖職者による「知の独占」に風穴を開けたのです。こうした先進的な外科医が医学を底辺から変えていったと言います。

 一方で伝染病や戦傷に対して有効な手立てを持たず、患者の身体には触れない大学出の医師や聖職者たちの権威は失墜し、大学での医学研究は停滞の時期に入ります。こうした背景の下、十四世紀になると、大学でも解剖が行われるようになりました。

 西欧の中でも、アラビア医学が先駆的に導入されたイタリア(サレルノ医学校に始まる)は早くから外科学と解剖学を重視していました(3参照)が、15世紀にガレノスの解剖書が本式に紹介されると、他国の大学でも徐々に解剖が行われるようになり、医学における解剖実習の重要性が少しずつ認識されるようになったのです。

(しかし、書物に書かれていることの検証と確認が目的で、実際の観察よりガレノスの記述が正しいと結論付けられた)

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ダ・ヴィンチの頭蓋骨のスケッチ(1489年)

 そしてルネサンス期になると、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年生 イタリア)は、自ら何体も解剖し、スケッチすることを積み重ね、遠近法や機械製図法を取り入れて、個体差に左右されない「普遍的で(対象の平均的特徴を正確に抽出して)精緻な解剖図」を描く手法を確立しました。

このような経緯を経て、1543年、医師ヴェサリウス(1514年生 ベルギー)は、解剖書『ファブリカ』を出版しました。

ヴェサリウスは、医学理論はガレノスに依拠していましたが、自分の目で見たこととガレノスの解剖書との違いを指摘し、『ファブリカ』で精密で正確な図版を多く用い、「医学における視覚情報の重要性を明らかにした」のです。

彼は大学の授業で講義だけでなく自ら執刀し、学生自身にも解剖と観察を行わせ、解剖学を人体を認識する基礎としました。そして解剖学を「医術のあらゆる技の基礎として徹底的に学ばれるべきもの」として位置づけたのです。

ヴェサリウスは、博士号取得したイタリアのパドヴァ大学で外科学と解剖学の教授となる)。

 これは西洋の大学における医学教育の大変革となったのです。

(しかし人体構造の解明や医学理論を重視した西洋近代医学では、十九世紀後半まで「治療の分野」の発展が遅れた)

 瀉血

 肝臓からの経路である静脈を切開して出血させ、身体のバランスを崩す悪しき体液を体外に排出するという治療法。中世にはこのようなデトックス(毒物の排出)思想があり、フランス国王ルイ13世(在位1601~43)は、年間瀉血を47回、浣腸を212回、下剤を215回処方されたという。瀉血は非常に危うい処方だったが、19世紀まで広く行われていた。

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ヴェサリウス『ファブリカ』(1543)の骨格人側面図,木版画 机の側面には「思いのままに生きること,そのほかは死に神のもの」と書かれている。