野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三2

 今回は野口整体と石川光男氏が説く「伝統的日本文化の随所にみられる特質」との共通点で、『日本の弓術』(『弓と禅』)で有名なオイゲン・ヘリゲルが取り上げられています。

 共通点を簡単に言ってしまえば、学ぶ時の心の態度と、ある心の境地に至ることを目標として身体を鍛錬することにあり、それはどういうことなのかが主題となっています。できましたら、当ブログ内にある「大人の天心」

soryu.hateblo.jp

という「鍛錬」について述べた野口先生の文章も併せ読んでみてください。それでは今回の内容に入ります。

2 日本文化の特質「じねん」「道」を相対的に捉え直す―「道」の喪失と日本の戦後世代の問題

  日本の近代化とは、西欧に定着している合理主義と民主主義の背景を十分に検討せずに、欧米の社会的な仕組みと方法論をそのまま輸入したものです。

石川氏は、敗戦によって失われた「日本の心」について述べ、明治維新以来今日まで近代化が進む中、「儒教的伝統の崩壊」と西洋的「普遍性」に飲み込まれてきた日本の近・現代史を振り返り、日本文明を相対的に捉え直すことを提言し、次のように述べています。(『複雑系思考でよみがえる日本文明』) 

修行によって体得する「じねん」

 精神と身体の統合の体得は「修行」であって「学習」ではない。現代の日本社会(禅道場などは除く)に学習はあっても修行はみられなくなった。精神と身体を統合する修行において重視される哲理が「じねん」である。

…武道や書道などの「道」の極意は「じねん」に求められてきた。「じねん」は、西洋文化の伝統の中には見られない概念で、合理主義的な理性的論理では理解することができない。「じねん」は言語を通して精神的機能だけで理解することは不可能で、心と身体を一体とする統合的な修行によって体得する以外に道はない。

日本の「道」が合理主義的な近代西洋文明の伝統と全く相いれないことをよく示しているのが、ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルの書いた『弓と禅』である。

ヘリゲルは、日本の弓術は西洋の射撃と同様に、巧みに矢を的に当てることを目的としたスポーツと予測して入門したが、稽古の第一日から全く予想に反した指導を受けて困惑する。

論理的な思考を得意とするドイツ人哲学者の頭を混乱させたのは、次の諸点である。

一 筋肉の力を使わないで弓を引く。

二 呼吸法による精神の集中を絶対的な要件とする。

三 矢を放とうとする意志を持たずに、矢が自然に離れるのをまつ。

四 的を注視せずに的を射る。

矢を「放つ」のではなく、矢が「放れる」のをまつ。それが「じねん」の放れである。しかし、ぼんやり待っていても矢は放れない。

精神的集中、心身の緊張と弛緩の微妙なバランスの中で、柿の実が熟して自然に木から落ちるように矢が「放れ」、しかも意図的に「放つ」よりも遥かに鋭く矢がとび出さなければならない。それが理想の「射」とされる。

 ヘリゲルが弓道を修行したのは大正の末期から昭和の初期にかけての六年間、師は阿波研造である。

ヘリゲルが入門した時期は、阿波研造が的中主義の合理的な弓道から、禅的な要素を強く志向した精神的な弓道に転向した時期にあたっている。阿波研造が精神的な要素を特に重視してヘリゲルを指導したのは事実であるが、ヘリゲルが困惑した前記の四項目は、日本の弓道全般に共通する一般的な特質であって、決して阿波研造の独断的な特質ではない。これらの特質は、「じねん」を極意とみなす日本の古武道に共通する要素を内包している。

「じねん」の概念は、合理主義的な論理からは推察の手がかりすらつかめない。非連続的世界観を土台とし、単純系をモデルとした合理主義的論理から「道」の極意が理解できないのは当然の帰結であるが、複雑系の視点からみれば推察の手がかりはつかめる。

単純系(閉鎖系)はひとりでに秩序を造ることはできないが、複雑系は自己組織化という機能によって自律的に協調的な秩序を創り出すことができる。武道における「おのずからなるあり方」とは、心身の潜在的な秩序形成機能が十分に引き出された状態と解釈することができる。

武道の極意としての「じねん」は、人間の意図する技の目的に添ってこの機能が十二分に発揮されるように心身が統御されている状態であるといってもよい。

 どのような目的に添って心身が統御されるかは、人間の意志が決定する。そのような意味では主体性がある。しかし、いかにして潜在的な機能が発揮されるかは人間が決めることができず、自然の仕組みにゆだねなければならない。そのような意味では人間の側に主体性はない。

「ゆだねる」という言葉は、主体性のない消極的な言葉のように解釈される場合が多いが、武道の極意における「じねん」は、毅然とした主体性と、心身の機能を自然の仕組みにまかせきった全託の状態とが同居している。

心技体を自然の仕組みに従うように統御することに全力を尽くし、結果は自然にゆだねるという生き方は、伝統的日本文化の随所にみられる特質である。

  野口整体では「全生」という基本理念があります。それは「生命を全うする」、「全力を発揮して生きる」、「瞬間を全力で生きる」という意です。これが右記の「人間の意志」、主体性です。

「全生」するためには「体を整える」ことからですが、それには「心身の機能を自然の仕組みにまかせきった全託」の心境が必要(活元運動また個人指導時)であり、個々人の生活においては、野口整体の「健康生活の原理」、「病症経過(『風邪の効用』の思想)の理解」、「自身の体癖を理解する」などを通じて、やはり「体を自然の仕組みに従うように統御する」という「毅然とした主体性」が求められます。

 このように野口整体は、石川氏が説く「伝統的日本文化の随所にみられる特質」と同様です。

(ヘリゲルの弓道修行の物語については、主に『日本の弓術』『新訳 弓と禅』を使い、第三部第一章で詳述)