野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 三4

 今回は、機械論的世界観の基となった、物と心の分離についてです。中心となる引用文に出てくる、科学A=近代以前の科学科学B=近代科学という言葉が少しわかりにくいので解説しておきます。

 科学A=近代以前の科学というのは、キリスト教神学を基に森羅万象を観察し、神の意図やはたらきを理解するということです。西洋では、近代科学が始まる以前にも、神の創造物である自然を観察するという客観的な視点が、発達していました。これは自然哲学とも言いますが、科学のひとつなのです。

 そしてキリスト教世界では、神の愛とはたらきが世界と自分とのつながりであり、すべての存在に意味を与えていると考えられていました。

 その後、「神」の存在を考えに入れない科学、科学B=近代科学が発達します。科学Bは純粋なものの原理、物理的な力以外の働きは認めません。

 ここでは「擬人的」という言葉が使われていますが、日本ではものの中にある「いのち」「たましい」と言う方が分かりやすいかもしれませんね。

 それでは今回の内容に入ります。

4「近代科学」(科学B)以前の擬人主義的な科学(科学A)

― 物と心の分離(物心二元論)による機械論的世界観の確立

 

  村上陽一郎氏(第一章二 2で紹介)は、近代科学以前の「擬人主義」的な自然観について、次のように述べています(『新しい科学論』)。 

医化学派の神秘思想

擬人主義というのは、人間的な特徴、とくにこの場合は、感情とか、情緒とか、意志などのような心の側面での特徴を、人間以外のものにも当てはめてみようとするやり方のことを言います。

例えば、桜の枝を折ろうとしている子どもに、桜だって枝を折られれば痛いでしょう、と諭したとすると、この諭し方は擬人主義的ということになります。

…このように、人間以外の自然物に、人間的な感情や知覚を当てはめようとすることは、一般的、常識的な世界では、必ずしも珍しいことではありません。

とりわけ東洋的観想の世界から言えば、あるいはある種の芸術的立場から言えば、路傍に転がる石一つにさえ、心が宿り、意志や情感が備っている、と考えることも出来るでしょう。

しかしこと自然科学(科学B=近代科学)の立場に立つ限り、こうした考えは「非科学的」なのです。例えば、科学的に言えば、太陽と地球との間には、万有引力が働いていて、太陽が地球を引っ張る形になっています。

そのとき、なぜ地球は太陽に引っ張られるか、という問いに対して、太陽と地球とは親子であって、子である地球は親の下に行きたがっているからだ、と答えたとしたら、これはとてもおかしな説明だと思われるでしょう。

実を申しますと、科学A(近代科学以前の科学)では、このような説明は必ずしもおかしなことではなかったのです。

ケプラーの考えていたことは、この説明通りではありませんが、これに多少とも近いものですし、万有引力が当初ラテン語で《attractio》と呼ばれたのは、英語の《attractive》という語が「魅力的」という意味をもっていることを想い出していただければおわかりのように、どちらかといえば人間どうしが感情的に引かれ合うような関係を裏に想定していたとも見ることができましょう。

科学B(近代科学)で、それが《gravity》(重力、引力)という無味乾燥な中立的な用語に置き換えられたのも、《attractio》のもつ擬人的な意味合いが嫌われた結果であるといってよいと思います。

   このように、西洋でも近代科学以前には、人間と自然の間には、「感覚と感情」による心情的つながりの濃い自然観が一般的でした。

 しかし、自然物や人間の肉体を「もの」と断定し、一切の心情的つながりを「切断」することで、近代物理学が成立したのです。そして、力学(「運動とは何か」の研究)のさらなる発展によって、自然を機械として理解する「機械論的世界観」が確立しました。

 この「物と心の分離(物心二元論)」が後の人間に与えた影響は甚大なものがありました。心と体のつながりを切断(心身二元論)し、人間と人間の間の関係(心情的なつながり)をも切断してしまうことになったのです。