野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 二 4
4 修行とは気のはたらきを受け入れる「器」を作ること
師野口晴哉は「気」と「天心」について、
「天心は自然につながっているのです。だから使うほど良い。愉気というのは自分の力を人に伝えるのではなく、自然の力を通す窓のようなものなのです。だから光(気)を通す毎に窓はいよいよ開いて大きくなる。」(「無限なる愉気」『月刊全生』)
と、また
「天心というのは大空がカラッと晴れて澄みきったような心だ。利害得失も毀誉褒貶も無い、自分の為も他人の為も無い。本来の心の状態そのままの心である。だから病気を治そうとか、早く良くなろうとか、もっと良くしようとかいう俗念を持ってはいけない。きっとよくなるという信念でも邪魔なものの一つだ。」(『健康の自然法』)
と教えています。
師の「自然」という言葉は、そのまま「道」と置き換えることができ、「天心」とは「天上の心」なのです。
「気」はもともと大自然に遍満する力であり、修行とは、この気を取り入れることができる「器」としての身体(身心)作りであったのです。このような「修行法」のあり方は、整体指導者のみに求められるものでなく、「道」が基盤となっていた敗戦までは、全ての日本人の生き方を導くものでした。
「道」を生きる人間としての「器」を作るため、日本で独自に発達したのが、各種の“道”であり、「道」を体現するための身体を、「型」によって養っていたのが「腰・肚」文化です。これは、身体を「型」を通して修養することで、器、つまりその能力(=「道」のはたらき)を磨くことでした。
型を以って身体性を探求し、身体に具わる潜在的可能性(魂)を具現しようとする、これが、日本の「道」なのです。
現代の心理学の立場からは、器作りとは、自身の潜在意識・無意識に具わる能力を拓くもの、と表現することができます。