野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

付録 「心を考える」は流行でしかない 6

6 私と野口整体との出会い

 野口整体との出会い、それは私にとって運命的なものでした。当時、私は十八歳。とても暗い青春を過ごしていました。田舎の中学では成績が一番の時もあり、受験競争の激しい進学校に入学したのですが、校風が合わなかったのです。

 競争を煽るような教え方や、物事を深く突き詰めない暗記式の受験勉強には全くなじめなかったのです。人生で大切な思春期にこのような高校生活でしたから、将来を展望する心が、「自分はどう生きればいいのか」という悩みの中に、私を閉じ込めていました。

 それで浪人することになったのですが、浪人中も、高校時代はなぜあんなに苦しかったのか、好きだった勉強もなぜ意欲を失ってしまったのかと悩んでいました。答えの見えない悩みの中に埋もれているかのようでした。

 そのような一浪中の夏、父親に送られて来ていた整体協会発行の『月刊全生』を読んで、「これだ!」と思ったのです。目の前が明るくなるように「ピカッ」ときたのです。師野口晴哉の語録にある思想性に、確かに感じたことを今でも憶い出します。

晴風抄」(『月刊全生増刊号』全生社 )

 健康の原点は自分の体に適うよう飲み、食い、働き、眠ることにある。そして、理想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。

 どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る。これが判らないようでは鈍っていると言うべきであろう。体を調え、心を静めれば、自ずから判ることで、他人の口を待つまでもあるまい。旨ければ自ずとつばが湧き、嫌なことでは快感は湧かない。

 楽しく、嬉しく、快く行なえることは正しい。人生は楽々、悠々、すらすら、行動すべきである。

 このような師の言葉に触れて感動したのです。その頃私は、少林寺拳法の整体法に強く興味を持っており、そのことと野口整体の思想が私の無意識を揺り動かし、「知行合一(註)」の道に向かわせたのだと思います。

 翌年の春、私は師野口晴哉の整体指導法初等講座に出席したのです(この日は1967年4月2日で、入門同日)。

(註)知行合一

 本当の知は実践を伴わなければならないということ。王陽明が唱えた「陽明学儒教の一派)」の学説。古代ギリシア哲学でいう「テオーリア(思想)」と「プラクシス(実践)」が一体であること。1960年代までは、古代ギリシア哲学以来の「テオーリアとプラクシスを区別して、テオーリアの知を上位に置く」という価値観が支配的だった。