野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二部 第四章 三6 自己を知り、活かす生き方を目指して― 日本舞踊を通じて、「身心一元」の意味を悟る

(近藤)

 今回の内容に出てくる「身体サミット」は河野智聖氏が主催した会で、河野氏のご招待で金井先生と真田さんが訪れたと記憶しています。

 文中の青木宏之氏は「心身を開発する現代人のための体技」新体道という総合武道を創始し、「遠当て」という離れた相手に対する非接触の攻撃技を会得、筑波大学で行われた国際シンポジウム「科学・技術と精神世界」(1984年)で披露し、気のブームのきっかけとなったことで知られています。

 真田さんはこの後、花柳流の日本舞踊に入門します。少々唐突と感じるかもしれませんが、原稿にもそのつながりについては述べられていませんのでご了承ください。

6 自己を知り、活かす生き方を目指して― 日本舞踊を通じて、「身心一元」の意味を悟る 

 2010年11月23日、真田さんは東京で開催された「身体サミット」という対談と演武の会に金井先生と出席することになり、青木宏之氏の講演を聞き演武を見る機会を得た。

 真田さんはカトリックを信仰するクリスチャンだが、青木氏もクリスチャン(プロテスタント)であり、真田さんにとって神学に対する造詣が深い青木氏の講演は非常に興味深いものだった。

青木氏の演武は真剣を持って行われ、真田さんは「神との一体感を表しているかのようであった」という感想を述べている。信仰、霊性という心の領域が身体の技にそのまま現われた美しさを感じたそうだ。

 真田さんは、以前に中国の少数民族の舞踏家、ヤン・リーピンの公演を見た時のような感動を再び得て、日本の伝統に根差した身体技に強く惹かれるようになった。そして、「自分の心を身体でありのままに、自由に表現したいという渇望」が沸き起こったという。

 ちょうどその頃、真田さんの妻は日本舞踊を始め、その話を聞いた真田さんは「自分もやってみたい」と強く思い、花柳流に入門することにした。

 真田さんは日本舞踊の稽古で「足使い、腰使い、重心の置き方などが、日常の所作ととても違う」と感じ、活元運動を始めた当初に感じた「身体の不自由さ」をそこでも感じたそうだ。

 しかし、踊りの一つ一つの動きが少しずつ身についてくると、その所作の中で「躍動と静寂が一体となっているような感覚」を得ることがあると言う。

 それはスポーツでの躍動感とは異なった感覚で、スポーツでは筋力に依存するためか、強い躍動のあとには消耗感を感じる。その限界を超えるために筋力を高めトレーニングを積み重ねるようなものだ。しかし日本舞踊は、振りが身に着くと、それが自分の自然な動作そのもののように感じる。

 身に付かない時に感じる不自由さというのは、振りの通りに身体を動かさねばと考える私と、動かされる身体、という二元対立の中にある不自然さ・ぎこちなさであるが、動きが身に付くと、そのようなことを意識することがなくなり、快い動きとなる。

さらに練達すると、踊る人の生命の迸りが踊りの中に表れるのかもしれない。真田さんは、日本舞踊の稽古を続けながら、整体指導で気づきを得た「身心一元」は、このようなことに通ずるのではと考えるようになった。

 整体指導を通して、真田さんは少しずつ自分自身を理解する作業を続けてきたが、整体指導は自分を活かすことを学ぶ道なのだとも思っている。そして整体というのは、「真の自己に向って成長し、その生命を活かし全うするための修養の道」だと言う。

修養を通して身体感覚を涵養し、豊かな感性を養うことで、真に自分の内面を深めることができ、心身の一体性が高まる。知性と感性は一体となり、より明晰な知性、より豊かな感性へと成長する。真田さんは、身心一元であるとき、人間は十全に生きることが出来るようになるのだと悟った。

 一方、心身二元の状態では、頭(理性・知性)での認識に依存する。頭による認識のみで自分を理解しようとしても、真の自己を見いだすことはできない。真田さんは次のように述べている。

真の自己は、「かくありたい」と欲し、頭(理性)は、「かくあるべき」と考える。「かくあるべき」が「かくありたい」と一致しない限り、自身の裡は、対立と混乱が生じる。これが心身二元の致命的な問題である。

「かくありたい」と欲する自己を知り、そこに向って成長していくためには、身体感覚による修養を通して、身体に回帰し、真の自己を感ずることが肝要だ。理性はその後で働かせれば良い。

(金井)

 この「かくありたい」というのが、野口整体の「要求」というものです。

(近藤・以下、括りとなる内容のため全文引用させて頂きます。)

 この稿の纏めの最終段階となった2011年7月17日、整体指導において金井先生から「自らが人馬一体となれ」との言葉を頂いた。馬を御すために馬と一体となるには、その前に自らが「身心一元」となるという意味だ。

金井先生から言葉を頂き、私は一つの悟りを得た。身心一元となって生きることは、他者と対立せず、他者を活かし、自ら精進する道を歩むことである。

 人を支配するのではなく、人を活かす道、活人剣の道こそが、これから私が歩み修めていく道である。私は、自己理解が進む中で、大義を通すためであれば、人に嫌われ、恐れられ、疎まれることを厭わなくなってきたが、そのことで多くの敵を作った。そして私は、敵は必ず制するものと、これまで考えてきた。しかし、金井先生の言葉を踏まえ、これからは、気の感応を通して、自ら敵と一体となり、敵を活かし、転じて同志ならしめるための修養を深めていきたいと心に決めた。

 身心一元の修養は生涯続く。一歩、一歩、各日に歩もう。そして齢(よわい)を重ね、死を迎えるとき、限りなく豊かな自分であるために。