野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 序章4 からだ言葉― 気で観る潜在意識

 私は個人指導での身体の観察を通じて、「からだ言葉(体の一部を使って感情を表現する言葉)」が、身体に、事実現れているのを観て来ました。

 例えば「腹が立つ」、そして3にも書きましたが、「頭に来た(角が生える)」などです。このように、からだ言葉の通りの感情体験があったことを、多くの身体は物語っていました。

 日本語には精緻(細かく緻密なこと)に心を表現しているからだ言葉がたくさんにあります。このような言葉を作ったかつての日本人の「身体感覚」の高さと、人を「気で観る」ことができていた感性に、私は、長年深く感じ入ってきたのです。

 からだ言葉に見られるように、かつての日本人は、自身の潜在意識を通じ、他者の身体全体の表情を捉えることによって、その心(潜在意識)を観ることができていました。

 からだ言葉が多く出来たのは、江戸時代と言われていますが、その時代、整体指導者がいたわけではないのに、本当に、身体の表情をよく捉えて表現しているし、からだ言葉を皆が実感を持って共有できていたと思うのです。

 初出版『野口整体 病むことは力』(2004年 春秋社)の校正段階でからだ言葉の話をしている時、編集者が「金井先生は実に忠実に言葉を使われる」と言うのです。私は「そうだよ、だって本当なんだもん!」と答えました。

 この人のように、若い人でからだ言葉を知っている人であっても、単なる比喩と思っており、言葉から身体性が離れてしまったのが現代です。

 私は、野口整体の個人指導を続けてきて、「日本人の感性と言語」について勉強してきたと思うのです。手技療法と思いきや、実は国語の勉強だったのです。

 言語(意識)と身体が一体であったとは、「心と体は一つ」という野口整体の起源は日本文化にあったと、改めて言うことができます。それは「国語と体育は一つ」という「知行合一(ちこうごういつ)(知識と行為は一体であること)」の世界です。

 私の個人指導の中でのからだ言葉とは、体に現れている「表情」を私が形容し(形・パターンを通して、その心を言葉や例えを使って言い表し)、その上で相手にその事情を尋ねるというものです(こうして、心(潜在意識)が観察される身体を〔身体〕(キッコウカッコシンタイ)と表現する)。

 このような対話とともに整体操法を施し(身体的・生理的なはたらきを調整し)、感情的な滞りの流れを図る、こういうことが野口整体金井流の特徴だと思います。流れれば「自然・じねん」だからです(そして、無心に誘(いざな)う)。

 これによって脱力を促し、体を整える(=「自然治癒力」が十全にはたらく)ことが目的です。

 体が整い、心が調うと、新たな集中力が生じてくるのです。こうして、「気を鎮めて心を亢める」ことは、人間の品格を高くすることになります(気が乱れると品が悪くなり、気が調うと品が良くなる)。

 融通無碍 (ゆうずうむげ)(禅語・捉われるところがなく自由)という言葉がありますが、「心に差し障りが何も無い」というのが最も快く、かつ物事に新しく向き合うことができる、つまり集中力が発揮できる状態なのです。人の能力差というのは、集中密度の違いと言っても良いのです。