野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

宇宙の心に通う道筋と「脊髄行気法」-気の思想と目的論的生命観 23

脊髄行気法

 今回は前回の「脊髄行気法」の続きです。

(金井)
 ヒトの体のできていく過程から脊髄神経を説明したいと思います。
 受精後半月ほどで、が形成されます。そのなかの外胚葉より二十日から二十三日ほどで皮膚と神経と脳の基ができます。
 それは外胚葉が長い溝を作り、くぼみこんで管状になり、二つに分かれ、そして管状になったその一端が膨れ上がって脳になり、その下が脊髄になるのです。そして残った一方は身体の表皮である皮膚となります。
 ヒトの体として完成した、脳に続く脊髄神経の中には、脳室から続く空間があり、これを脊髄神経の中心管と言います(受精22、3日目で外胚葉が管状になった時できた中空がそのまま残って中心管となっている)。
 つまり、この中心管の中空はもともと皮膚の外側と同じ、いわば「外界」なのです。ですから、人間の体の中枢神経である脊髄の、そのまた中心には「外界」を含んでいると言うことができます。ここにすることを師野口晴哉は奨めています。行気とは気による呼吸法を言います。
 この「脊髄の中心管で呼吸をする」というのが脊髄行気法(頭頂にある大泉門から息を吸っていき、脊髄の中心管で呼吸をする方法)というもので、師野口晴哉の健康法の唯一とも言えるものでした。

空気そのものが脊髄の中心管に入るはずはないのですが、行気の訓練を根気よくすることで、背骨に「気」を通すことの効用を感じることができます。このことで体に気力が充ちるからです。
 ここに「気」が通る時、6の師の文章(前回の引用文)にある「統一した心によるはたらき」が実現するのです。
 行気法の体験で得た感覚による “仮説”というものではありますが、もとより皮膚の外側であった「外界」が、最も人間の中心である、脊髄の中心管に存在する、ということは何を意味しているのでしょうか。師は次のように述べています(『風声明語2』)。

背骨で息する
だるいとき、疲れたとき、身体に異常感があるとき、心が不安定なとき、気がまとまらぬとき、静かに背骨で息をする。腰まで吸い込んで、吐く方はただ吐く、特別に意識しない。
この背骨で息することを、五回繰り返せば心機一転、身体整然とすることが、直ちに判るであろう。
背骨で呼吸するといっても、捉え処がないという人が多いが、それを捉えた人は、みんな活き活きしてくる。顔がそれ以前と全く異なってくる。腰が伸びる。なぜだろう。平素バラバラになっている心が一つになるからかもしれない。脊髄に行気されて、その生理的な働きが亢まるからかもしれない。
ともかく、人間はこういう訳の判らぬことを、一日のうちに何秒間か行なう必要がある。頭で判ろうとしてつとめ、判ってから判ったことだけ行なうということだけでは、いけないものがある。
自分の心が静かになったとき、自分の心に聞いてみるがよい。広い天体のうちのである地球の上の人間が、判ったことだけやろうとしているその寂しさが判るであろう。頭で判らなくとも、背骨で息することが、宇宙の心に通う道筋になるかもしれない。
…疲れたまま眠るより、乱れたまま心を抑えるより、まず背骨で息をしよう。その後でどうなるか、そういうことを考えないでやることが脊髄行気の方法である。

 今日、宇宙時代における人間の視点としての「外界」のマクロは、宇宙飛行士が月からの帰還時、宇宙から地球を眺めることです。
 宇宙に浮かんだ地球が太陽を周回していることを実感した時、宇宙には、人間の知的理解を超えるはたらきが存在することを深く悟ると言います。
 アメリカの宇宙飛行士エドガー・ミッチェルはその経験を次のように語っています(『地球/母なる星』1988年)。

これは頭だけで理解したことではない。これは違うぞ、という非常に深い本能的な思いが、腹の底から突然こみ上げてきたのだ。
地球という青白い惑星がかなたに浮かぶのを目にし、それが太陽を回っていると考えたとき、その太陽が漆黒のビロードのような宇宙の遠景に沈むのを見守ったとき。知識として理解するのではなく、宇宙の流れやエネルギーや時間や空間には目的があることを肌で感じたとき。そしてそれが人間の知的理解を超えていると悟ったとき。
そのとき不意に、それまでの経験や理性を超越した直感による理解が存在することに思い至った。この宇宙には、行きあたりばったりで秩序も目的もない分子集団の運動だけでは説明のつかない、なにかがあるように思われる。
 地球への帰還の途中、24万マイルの空間を通して星を見つめ、振り返って今向かいつつある母なる星、地球をながめたとき、宇宙には知性と愛情と調和があることを私は身をもって知ったのである。

 このような「悟り」が地上で行われるのが「禅」などの瞑想修行によるものですが、これは脊椎、仙骨による「背骨」のはたらきに拠っているのです。
 脊髄行気法により、よく気が通った時、自己という「内界」と、他者および他者を含む「外界」との心地よい一体感に包まれる時、自己に内在せる「神の自在性」を感じざるを得ません。「開かれた自己となる秘訣が背骨にある」ということが、先の受精卵からひとつ説明できるものと思います。