第二章 三 日本人にとっての宗教とは =〔身体〕 ―「整体を保つ」は「身をたもつ」3
今回は心身の持主である自分とは何か、が焦点です。
心身の持ち主である自分― 心で気の集散を自由に行う
負の感情(不安や怒り、憎しみや妬みなど)は鳩尾(みぞおち)の緊張(実)として身体に残るのですが、「型」によって腰ができていると、その緊張が弛み易く、鳩尾の虚を保持することができるのです。これは、日本人の伝統的な「腰・肚」を中心とする「上虚下実」の身体というものでもありました(型と「腰・肚」文化の意義)。
このような身体を「意識して保つ」ことを、貝原益軒は「心につねに主たるものあるべし」と、その心得を教えているのです(益軒六十五歳時の肖像画、端然と坐るその姿には、正坐という技の中に流れている「主たる心」が顕れている)。
型を身につけることは「心に主を持つこと」なのです。
江戸の当時、「身」といえば「身心・心身」のことを指しており、「心に主たるもの…」の「心」というのは「身」のことでもあります。この「心身」に「主というもの」を持つべきであると益軒は説き、師野口晴哉は「心身の持ち主である自分」というものを説いたのです(この後の師の引用文に注目)。
「心に主を持つ」とは、「気を確かに持つ」ことと同じで、「気を持つ」とは身心に「気を通す(註)」ことに他なりません。
(註)気を通す 脊髄行気法(脊髄神経の中心菅で呼吸をするつもり
になること)により、体の中枢である背骨に気を通すことができる。こうして背骨が通ると、心と体を持ち主の生きる道具として使うことができる。
師野口晴哉は「気は心と体をつなぐもの」と言い、愉気法としての「気」を説きました。
気による「心身統一」の力は、生活環境や人間関係における「抵抗力(=統一力による主体性の発揮)」となり、気が通っている時「気は心と体をつなぐもの」という真理が活きてくるのです。
心は気の動く方向にはたらくもので、「自由な心」を得んと欲するならば、「心で気の集散を自由にする」行気法を鍛錬することが肝要です。師は「気の訓練」について次のように述べています(『整体入門』第二章 愉気及び愉気法)。
「気」は心ではない
…「気は心」といいますが、心そのものではありません。ただ気の動くように心が動くだけです。心だけではありません。体も気の行く方に動きます。…
心で気の集散を自由に行う
…気をおさめ、集める訓練は、そこに気が集まってしまうことではなくて、自分の体のどの部分にでも気を自由に集め、また、抜くことを行なうのです。だから、気を転ずることも外す(はず)ことも、気を入れることも通すこともできるようになるのです。気に心が引きずられないで、心で気の集散を自由にすることが、その訓練の内容です。
東洋の修行法の考え方では「調身・調息・調心」と言い、形から心へ入ることを重視します。つまり、身体の訓練を通じて心を訓練していく、ということです。従って、心は単なる意識として捉えられず、また一定不変のものでもなく、身体の訓練を通して次第に変容・成長していくものとして捉えられてきました(こうして日本の文化は意識の深さを生み出した)。
心と体の持ち主として、心と体に気を通して生きることが、自分の身心を主体的に把持(主体的自己把持)して生活して行くという、主としての意識を育むのです。
西洋医学の本流においては、身体や心の持ち主である「主体としての自分自身」を考えることはなく、また考えようもないものなのです。東洋的伝統とはまったく違う観点により発達した西洋医学は、身体の世界を「物」として極めるものであり、心や生き方と関係づけることはないのです。
このような近代医学の全盛時代に育った若者たちは、野口整体を人生に活用する上で、「身をたもつ」という『養生訓』の世界を教養として知り、不易流行としての養生「整体を保つ」を実践しつつ、「野口整体」の世界を体得することが肝要です。
師野口晴哉は養生を次のように説いています(この引用文には「心身の持ち主である自分」が暗示されている)。
養生とは 自然に生き
生きて自然を活かすこと也
工夫し努力し自然から遠ざかることに非ず
自然であろう為に 心を使うことに非ず
自然に生き 自然を活かすこと也
頭あれば頭を使い 手あれば手を使い
足あらば足を使ふことにて 使はれることに非ず
使われて自然のつもりの人あれど
人間が生きていることを心静かに考うべきなり
養生といふこと斯くの如き也