第二章 三 日本人にとっての宗教とは =〔身体〕―「整体を保つ」は「身をたもつ」4
健康に生きる心を育てる「養生」としての野口整体
師野口晴哉は伝統的な「養生」の考え方について、「潜在意識教育法講座(1975年1月)」で次のように述べています(『月刊全生』)。
健康に生きる心(六十四)
…人間のお腹の中にいる大腸菌は栄養を分解して人体のために役立っているのに、それが体が弱ると、大腸カタルとか関節炎とかの原因になる。相手(細菌)が悪いのではなく、自分の体力が弱ったことがいけないのです。自分が弱ったからそう(病気に)なったのだから、相手を殺さなくてはという前に、自分を省みる。自分を充実することを考えればいい。
(養生をしていた)昔はそうだったのです。体が弱ると、体力を揺す振った。…昔の人が考えていたように素質として見、素質を丈夫にするように養性(養生)することの方が大切であり、自分の眠っている力を喚び起こすことの方が本当の衛生であったのかも知れない。だから自分の力を揺す振り起して健康に生きることを心掛けたのです。
明治末に生まれ大正時代に育ち、昭和の初めから活動が活発であった師は、「衛生」の言葉をも用いて、養生をこのように語っています(明治から大正、昭和にかけて(敗戦後も含め)、健康論が養生から衛生へ移って行った)。
師は整体指導の目的について、
「異常があれば手を当てるだけで治るような体にするにはどうしたらいゝかというと、体が鈍った状態のまゝではまずい。又体が鈍ってなくとも、心がよそ見をした(何かの思い(主に陰性感情)に捉われている)まゝではやはり体が鈍ったのと同じ状態になる。だから潜在意識の方向を正し、いろんな生活のために生じた体の歪みを正し、それによっていつも敏感な状態を保つ」
ことと述べています。
そして、整体指導と「心や体をつかう筋道」について、次のように述べています(『月刊全生』技術を使う心)。
技術を使う心
…私達は、相手がイタイイタイと騒いでも、それを体の病気とみる前に、その以前の心の動きをつかまえようとします。体を押えたゞけでも治るけれども、それは一時のことである。それ以前にある要素、つまり病人になりたい心の角度を変えて、体の本来の力を発揮して経過出来るように仕向ける。そういう奥にある心を見逃して、イタイということだけしか、こゝを怪我したということだけしか見えなかったとしたら、それは間違いだと思う。
…私達は、行動以前にある心、行動以前にあるエネルギー(気の動き)を修正することが目的でありますから、相手のアイタヽヽというようなゼスチャーや訴えにひきずられるとしたら、病人に瞞着される(まんちゃく・だまされる)行為だといえます。で、それを受け入れることによって病人が治るかというと、病人的要求はいよいよ強まるだけであります。
…それには体をつかう筋道や、心をつかう筋道を明らかにし、人間がその持っている体や心を自由につかえる方法を知らなくてはならない。
人間の心というものは可笑しなもので、自分の心というものは自由に出来ない。こんなところで怒っては損だと思っていても怒ってしまう。泣くまいと思っていると涙が出てくる。自分の体だって自由に出来ない。
…人間の心や体は自由に出来ないということのうしろには、自由にする方法を知らないということがあります。「胃袋よ働け」といったって、胃袋は働かない。だけども愉快だったらお腹が空いてくる。自分の好きな人のにぎってくれたにぎり飯なら美味い。御飯の中に蠅が一匹入っていたって食欲がなくなる。食欲がなくなるということは、胃袋の働きを抑えたことになる。
だから意志では自由にできないが、空想とか感情(陽性感情)とかいうものを使えば自由に働かせることができる。とすると、自由に動かせるはずの心や体を、今迄は意識というものにだけ、あるいは意志とか努力とかいうものだけ求めていたから、自由にできなかったのだということができる。だから方法さえ得れば、体も心も自由になるはずである。つまり方法を知らなかった為に、無知であった為に、自分の心や体をマスター出来なかっただけで、自由に出来ないと思い込んでいること自体が違う。
こういう心や体をつかう筋道を知らせるつもりで、私は整体指導ということを掲げてやっているのであります。