気は心と体をつなぐもの
貝原益軒の『養生訓』には、「食べ合わせ」などの記述もありますが、立川氏は江戸時代の「気」を中心にした身体観、病症観、健康観を『養生訓』を通じて学ぶことができると説いています。
そして、この「気」の捉え方には日本人の心性が表れている、というのです。『養生訓』で説かれている「気」「身」について、立川氏は次のように述べています(『養生訓に学ぶ』)。
益軒の気の考えは中国の気の学説に影響を受けているが、『養生訓』にみられる「気」そして「身」の考え方は日本人特有のメンタリティ(心性)にもとづくところがある。
益軒はよく「身(み)」ということばを使っているが、それはたんなる身体のことではない。日本人独特の「身」という考え方が背後にある。
・・・身というのは、なによりからだと心をわけない日本人の考え方をよく表わしたことばである。ヨーロッパ流のマインド対ボディという二分法的な考え方ではなく、心身相関の考え方である。
…「気」という思想は、この「身」という考え方とむすびついている。…「心気」「血気」ということばにみられるように、心にも血にもおなじ気があり、気がめぐっている。その気によって人のからだは保たれ動いている。
…「身」とおなじように、「気」のついた日本語も無数にある。
…江戸時代の人たちは、「気」というものを無意識であれよく理解しよく体得していたにちがいない。それだけ、からだに対する生理感覚が鋭く強かったといえる。現代の日本人は日常的には気のついたことばをよく使いながら、からだの中の「気」の存在について、それこそ「気づかず」、「気がない」。それは自分のからだに対する生理感覚が衰弱したことでもある。
…「気」は病いや心や性の問題を含め、人間のからだの中で発現するたしかな現象である。からだのなかの目に見えないものに目を向けるということを考え直すべき時ではないだろうか。
益軒の『養生訓』の根底にある気の思想を理解するには、なによりからだの中の目に見えないものに目を据えることである。目に見えるものばかりを信じてきた私たち現代人は、目に見えないものを信じるという地点に戻って出発しなければならないのである。
金井先生が注目した「隠れたものを見る」という視点は、この「気」による観方のことです。先生は「野口整体の源流は日本の身体文化」(『病むことは力』)と言いました。それは「心と体をつなぐもの」としての気を基とした文化、ということなのです。